15
井ノ原をベットに横にさせ、掛け布団をかけ直してやり、病室を出ると。
「あっ…長野」
ドアの向かい側の壁に、長野が俯き寄り掛かっていた。
長野は俺の声に顔を上げると、力無く笑った。
「わりぃ俺、口止めされてたのに、井ノ原に…」
「ごめんね、俺が足らなかったんだ」
慌てて謝る俺に逆に長野が謝ってきて、俺は少し驚いた。長野は苦虫を潰したような表情で、俺を見上げている。
「なにが…?」
長野は聞くつもりはなかったんだけど、と唇を噛んだ。
「よっちゃんの担当医なのに、俺。よっちゃんの心の声、ちゃんと聞いてあげられてなかった。ごめんね、坂本くん…」
少し寂しそうにそう言う長野に、俺は違う、と言った。
「お前は十分、井ノ原の力になってたよ」
足りなくない、いいんだ。
すると長野は答えず、俺にバスローブを渡した。
「とりあえずその服、消毒するから。ついて来て」
そう言って、スタスタと歩き出した。前を進む長野の背中は少し軽くなったように見えて、俺は嬉しくなり、早足で長野について廊下を歩いた。
井ノ原の力にも、長野の力にも、俺は少しは、なれただろうか。
その一週間後だった。
井ノ原の容態が急変したから、最後に井ノ原と会いたい人を連れてすぐに来て下さい、
という焦った看護師からの連絡がきたのは。
「———井ノ原っ!」
准一、剛、健と共に病室に駆け込むと、4人ほどの看護師と長野と井ノ原が、闘っていた。
「血圧低下、心拍数上昇しています」
次々と医療機器が井ノ原に繋がれ、剥がされ。
マスクと白衣で目だけが覗く長野は、必死に手を動かしていた。
「井ノ原くん…」
健が一歩近づくと長野はこちらに気づき、良かった、と安心したように微笑んだ。
「よっちゃん、みんな来てくれたよ」
そして手を動かしながら、ベッドに横たわる井ノ原に言った。
すると看護師たちに囲まれたベッドから、酸素マスクを付けられた井ノ原がこちらを向き、荒い息遣いの中微笑んで見せた。
しかしまた井ノ原は上向きになり、激しく胸を上下させる。
「なんで…どういうこと、まーくん…?」
その一刻を争う光景に、准一が眉をひそめ俺を見上げた。
まだ、准一たちには井ノ原のことを話していなかったのだ。
剛と健も、不安そうに俺を見つめている。准一は急かすように俺の袖を掴み、俺は強張った声で答えた。
「准一、剛、健…すまない。本当はこの前倒れたとき、もう一ヶ月もたないって、言われてたんだ。
あんまり心配かけると、井ノ原も気まずいかと思って…言えなかった、すまない」
俺が言うと、3人とも目を見開き、健は目に大粒の涙を浮かべた。
「そんなぁっ…、井ノ原くん、やだよ…」
俺たちは出来るだけ井ノ原の近くまで寄り、井ノ原を見つめた。
井ノ原は額に脂汗を浮かべ、荒い息を繰り返し、意識をなんとか持たせている。
「心拍数上昇しています! 100、110…!」
「緊急治療室の手配っ!早くしないと…、 っ!…よっちゃん!?」
長野が急いで動き出そうとすると、井ノ原が長野の手首を引っ掴んだ。
俺たちも長野も驚き、長野は困惑の表情を浮かべて井ノ原の手を離そうとした。
「よっちゃん、離して?早くよっちゃん移動しないと…」
しかし井ノ原は離そうとしない。
「もう、いい」
「…え?」
もう、このままでいいよ、と。
荒い息を繰り返しながら、しっかりと長野の腕を掴んだまま、井ノ原は言った。
「もう…オレ、いく、から。このままで、いい…」
そう、延命措置を拒んだ井ノ原の顔は、満足げに微笑みを浮かべていた。
「よっちゃん…」
悲しそうに「いいの?」ともう一度聞く長野に、井ノ原は笑って頷いた。
長野は一瞬眉をひそめたが、拳を握り、決心したように言った。
「では、人工呼吸機を、外します」
そう言って長野は俺たちの方にも振り向き、「人工呼吸機を外しても、少しの間は呼吸は続けられるから」と説明し、俺を見た。
俺は長野の背中を押すように、頷いて。
それを見ると長野も、目を涙で潤しながら頷き、丁寧に井ノ原の酸素マスクを外した。
「井ノ原くん…」
途端心配そうに剛が井ノ原を見つめる。
健と准一もまた井ノ原に一歩近寄って、透明なカーテンに手を添えた。
機械が全て取り外されると、井ノ原は嬉しそうに微笑み、俺たちの方を向いて消え入りそうな声で言った。
「笑っ…て?」
え、と誰もが井ノ原を不安げに見つめた。
すると井ノ原は可笑しそうに笑って、きゅっ…と力なく掛け布団を握って。
もう一度、今度ははっきりと、言った。
「笑ってサヨナラ、しよ」
だから泣かないで、と。
目一杯の笑顔を浮かべて。
「なに、言ってんだよっ…」
健はぽたぽたと涙を落としながらも、ぐいっと口角を上げ、泣き笑いの表情を見せた。
井ノ原は嬉しそうに目を細める。
「イノッチは、本当に笑顔好きだなぁ」
それを見て、准一も優しく微笑んで。
剛も、目を真っ赤にしながら八重歯を覗かせ、長野も、俺も、精一杯の笑顔を井ノ原に見せた。
ここにいる皆が、笑顔で。
涙にあふれた笑顔で、井ノ原を見つめた。
すると井ノ原は嬉しそうににっこり笑って、顔を一人ずつ順番に向けた。
「健…ちゃん」
健は泣きながら井ノ原を見て、ぷうっと頬を膨らませた。
「健ちゃんって言うなっつってんじゃん…」
井ノ原は笑って、
「大事な友達って、言ってくれて、ありがとう」
そう、掠れる声で言った。
健は顔をくしゃくしゃにして涙を流しながら、
「当たり前、じゃん…。何言ってんのぉ…」
バカじゃないの、と言ってみせた。
「井ノ原くんは、大事な友達だよっ…」
しゃくり上げながら言う健に、井ノ原は嬉しそうに笑って。
「准一…」
静かに涙を流す弟の方を向いた。
「倒れたとき、必死に助け呼んでくれて、ありがとう…それに、ごめんね…?」
井ノ原が少し眉尻を下げて言うと、准一は首を横に振って笑った。
「謝んなくていいよ、イノッチ…」
ずっと、おれたちに笑顔くれてありがとう、と准一は言って、井ノ原を見つめながら縋るように俺の手を握った。
井ノ原は「まーくんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」と笑って、一歩後ろに立つ剛の方を見た。
「剛…」
剛は何も言わず、俯いた。
「オレは…幸せだったよ」
井ノ原が言うと、ハッと剛は勢いよく顔を上げ、目を見張った。
『井ノ原、ホントに幸せなの?』
以前井ノ原に投げた言葉が剛の脳裏に浮かぶ。
剛の目から一粒の涙がこぼれ落ち、剛は嬉しそうに笑って、
「うん…そう、だな」
と頷いた。
剛は優しい眼差しで井ノ原に笑顔を向けて。
そして井ノ原の目は、ゆっくりとこちらに向けられる。
「坂本くん…」
うん、と俺は井ノ原に微笑んで見せる。
井ノ原は改まって少し真面目な顔をして言った。
「オレを…迎えにきてくれてありがとう、あと、」
言葉は途切れ、井ノ原はまた笑顔を見せた。
「もうひとつやりたかったこと、叶えてくれてありがとう」
一瞬、井ノ原の顔が泣きそうに歪む。
俺は当たり前だと言うように笑って見せ、頷いた。
そして井ノ原の目は、同じカーテンの中にいる長野へ見上げられた。
「長野くん…」
長野はいつものように優しく首を傾げた。
少し間が空いて。
井ノ原は一度深く息を吸い直して、言った。
「長野くん、だいすき———」
その言葉と共に、井ノ原の目から涙が零れた。
しかし井ノ原は、一生懸命笑ってみせて。
すると長野は優しく微笑んで、手袋をはめたままの指で井ノ原の涙を拭い、
「俺もよっちゃんのこと、だいすきだよ」
そう笑って、涙を零した。
井ノ原は嬉しそうに、頷き。
また俺たちにも目を向けて、言った。
「オレ、みんなといられて、幸せだった」
井ノ原はそう言って、笑って。
准一は涙を拭いながら、優しく微笑み頷いて。
健は嗚咽を繰り返しながらも、懸命に笑って、頷いて。
剛は涙をこらえるようしかめっ面で、はっきりと「うん」と首を縦に振って。
俺はそうだな、と噛み締めるように頷いて。
長野は優しく、頷きながら井ノ原の黒髪を撫でた。
それを確認すると、井ノ原は最後の力を振り絞って、笑って。
「ありがとう」
そう呟き、
静かに、固く、目を閉じた————————。
それは今から2年前、小さな病室で出逢った、
一人の男との、別れだった。
———よっちゃん、今までよく頑張ったね。
病気、治せなくてごめんね。
だけどこれからは、よっちゃんの病気も治せるようになるように、もっと勉強するよ。
俺にいつも笑顔をくれて、ありがとう。
そっちでもう少しの間、待っててね。
俺たちもあと何十年かしたら、必ずそっち行くから。
本当に、ありがとう。
———井ノ原くん、お疲れ様。
「健ちゃん」って言われるのは嫌だったけど、井ノ原くんと一緒に過ごせた時間は、本当に楽しかったよ。
ありがとう。
そっちでまた、色んな人に笑顔あげてよね。
おれはこっちで、色んな人に笑顔あげるからさ。
———イノッチ。
長い間、頑張ったね、お疲れ様。
そっちでゆっくり休んで。
イノッチのギターと歌、大好きでした。
だからおれも、まーくんに内緒でギター練習してるんだ。
イノッチより上手くなるように、頑張るね。
ありがとう、イノッチ。
そっちでもちゃんと、ギター皆に聞かせてあげてよね。
———笑顔嫌いって言ったこと、今は後悔してない。
井ノ原くんの嘘のない笑顔、もう一度見られたから。
井ノ原くん、おれ、あんたの笑顔大好きだよ。
あんたのいったのは多分、天国だろうから、天国で神様までも癒すように笑ってろよ。
こっちこそサンキューな、井ノ原くん。
———井ノ原。
お前と出逢って、俺は変われたよ。
もっと色んなことに、挑戦していこうと思った。
お前のできなかったことも含めて、さ。
だからお前も、そっちで出来る限りのこと、挑戦していけ。
辛いときは、俺たちのこと思いだしてな。あ、だけど化け物になって出てこられるのは御免だからな。
俺たちは絶対、お前のこと忘れない。
お前は近くで、俺たちのこと見守っていてくれよ。
俺たちも、お前と出逢えて、本当に本当に、幸せだった。
ありがとう。