SHINING SMILE 14

 

14

 

別れのときが近づいている。
あの余命宣告の日以降、井ノ原の身体は細く、蒼白くなる一方だった。
長野から聞く話も、悪い話ばかりで。

井ノ原の発作は頻繁になっている。そして井ノ原は自分の余命に気づいているかも、と長野は言っていた。
 
 
 

前ほどの笑顔は、見られなくなっていた。





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「井ノ原? 入るよ」

引き戸をガラガラと開け、井ノ原の病室に足を踏み入れた。
井ノ原は透明なカーテンの向こうで身体を起こして座っていて、俺に気づくと力無く微笑みを見せ、目を逸らした。
俺が井ノ原に向き合い座っても、黙ったままだった。

 
 

「…井ノ原」

カーテンの壁を挟み、井ノ原の肩がピク、と震える。

「調子、どうだ」

今まで井ノ原から話し始めていたのになれていた俺が掛けた言葉は、何か話さなきゃと必死に考えて発したもので。
少し声が震えた。
 
 
 

「…みんな、そう聞くんだよね」

しばらくの間を置いてそう呟いた井ノ原の声は、いつもと違っていた。
どこか諦めたような、しかし悔しそうな面持ちで。

俺は少し、焦った。

「みんな聞くって、何だよ?」

すると井ノ原は顔を上げて、諦めとも憎しみとも言えない目で、俺を見て。

 
 
 
 
 


「わかってるでしょ、そんなこと」



調子いいはずないって、わかってるでしょ?
 
 
 
 

と。
そう言って、唇をキュッと噛んだ。
 
 
 


肯定も否定もできないまま黙り込む俺に、井ノ原は少し震えた声で言った。

「…坂本くんなんか、長野くんに聞かされてたりするんでしょ?」

そう俺の目をじっと見つめる井ノ原の表情は、あくまでも笑顔だ。

「もうさ、自分でもわかってんの。自分の身体は自分が一番わかってるつもりだし。…オレがもう長くは生きられないって、聞いたんでしょ?」

隠さなくていいよ、と言う井ノ原の笑顔は、少し強張って見えた。
 
 
 


「教えてよ、オレの…残り時間」


井ノ原の瞳が震える。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
言いたくない。
長野にも口止めされてる。

自分でも認めたくないのだ。
井ノ原の命があと、一ヶ月もないなんて。


 
 
 
 
 
 
 
 
「…嫌だよ」

 
 
 
考え抜いて出した声はあまりにも情けないものだった。
井ノ原は、未だにじっと俺を見つめている。
その真っ黒な目には、悲しみと不安が、深く続いているように見え、また有無を言わせない強い意志を映していた。

 
 
 
 
認めたくない。
でも井ノ原には、嘘をつきたくない。




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「…もう一ヶ月も、生きられないって」




 
 
 
 
———俺は認めてしまった。

 

井ノ原の目が、微かに横に震えた。
しかし井ノ原はすぐに、無理矢理口角を上げて見せた。

目からは不安と動揺が溢れ出そうになっているのに。

 
 
「あっ…そっかぁ~、一ヶ月。それってさあ、長いのかな?短いのかな?」

態と語尾を明るくさせて。
「気にしてないよ」と言うように、必死に笑っていた。

 
どんだけ人の気使ってんだよ、馬鹿。
いらついて、俯いた。
 
 

「でも意外と長いかなあ?オレずっと病院にいるからさ、結構時間経つの遅かったりするんだよね…」


 
 
「笑うな」




 
 
 
 
どんどん明るくなっていこうとする井ノ原の声を遮った。
 

怒りと悲しみが込み上げてきて、震える唇。
井ノ原を見ると、井ノ原は驚き目を見開いていた。
笑顔も消えて、呆然とこちらを見ている。

「…なに、急に…?」

張りがあった声は萎んで、井ノ原の声は少し震えていた。
俺は井ノ原の声の変化にますますいらついて、少し声を大きくして言った。

「何笑ってんだよ。何が『意外と長い』だよ。
いつまでも人のことばっかり気にして、自分の感情抑えてていいのかよ? 今お前、すごい顔してるぞ? 堅い笑顔でさ、人形みたいだぞ。
お前がいつまでもそんな風に笑ってる理由って、何だ?そこまでしてお前がしたいことって何だよ!!」

 
 
声を荒げると、井ノ原が泣きそうな顔をしているのに気づいた。
 
そんな顔をしている井ノ原を見るのはあの日、井ノ原が病院を抜け出して、近くの公園で雨に濡れていたとき以来で。
 
 
酷く動揺した。

 
 
「あっ悪いっ…言い過ぎた…?」

慌てて言い改めたが、井ノ原は唇を噛み俯いてしまった。

俺は話を変えることも出来ず黙り込むと、井ノ原は顔を上げ、深い真っ黒な目で俺を見つめた。
その目は、涙も流れていないし赤くもない。
ただ、本当に寂しそうな目だった。

「じゃあ、どうしろって、言うの…」

掠れた声で、問いかけるように言いながら、また俯いて。
掛け布団を、ギュウッと握った。
 
 
 

「もう、一人になりたくないから…」

消え入りそうな声で、しかし悲しげに微笑んで、言った。

「オレさ。生まれてすぐ、施設の入口に捨てられたの」

笑っちゃうかもしれないけど、と続ける井ノ原は、どこか他人事のように微笑んでいた。

「育児放棄されてさ、物心ついたときにはもう施設で暮らしてた。だから親の顔も知らないんだ。
…それで、オレ人としゃべるの苦手で、施設で友達できなかったの。身体弱かったから、学校も休み勝ちで、当然友達できなくて、先生とか施設の人とも、上手くいかなくて、」

そう言って、井ノ原は言葉を詰まらせた。
話しているうちに、表情もだんだん暗くなっていって。
次に発した声は、小さく弱々しくなっていた。

「…ずっと、ひとりだったんだよ」

今にも泣き出しそうな井ノ原に、何か言わなければと思うのに、俺は声を出せなかった。
井ノ原の隠されていた過去に、返す言葉がなかった。


たが井ノ原は、涙が溢れるのを抑えるかのように言葉を続けた。

「でも、ギターと歌やってるときはさ、ひとりじゃなかった。自分の世界に入り込めて、何もかも忘れていられるような気がして…。だから高校のときは学校から帰ったらずっと部屋に篭って、歌作って、歌ってたんだ。」
 
 

ギターの話をする井ノ原は、屋上で歌っていたときと同じように笑っていた。
その表情は、本当に音楽が好きなのだと訴えているようだった。


しかしすぐに、井ノ原の表情は変わった。
 

「だけど高3のとき、だんだん咳とか熱が出るようになって、冬、血痰吐いて倒れた。
病院で検査したときには、随分進行してたんだ。…入院したら、ギターを弾くことさえやらせてもらえなくなって」

悔しかった、と井ノ原は拳を震わせた。

「だから抜け出して、屋上でギター弾いてた。
そしたら長野くんに見つかって、怒られるかと思ったのに、『すごく良かった』って、笑ってもらえて…。
オレ褒めてもらうなんて慣れてなくて、ギターやることも賛成してくれる人なんていなかったから、すごく、嬉しくて」
 
…自然と、笑顔になれた。


泣きそうに笑って、そう言った。


 
 

それからずっと笑うようになったという。
 
自分が笑顔を見せれば色んな人が話しかけてくれるようになって、長野とも仲良くなれたと。
 
それで坂本くんたちにも出逢えた、と井ノ原はどことなく悲しそうに言った。
 

「坂本くんたちと逢えて、オレ、本当に楽しかった。
毎日ギターを弾くのももっと楽しみになって、生きてることが、すげえ、幸せに思えて…」

笑ってれば、みんなオレのこと好きでいてくれる、みんなそばにいてくれるって、気づいたから。
オレが笑わなくなったら、またみんな離れていくだろうから。

やっと掴んだこの幸せをもう、手放したくないから。

 
 
 
「だから、笑ってんの」


 
 
井ノ原は泣き出しそうな顔をして俺を見つめた。

「井ノ原…」

俺が口を開いたが、井ノ原は遮るように続けた。

 
「いいじゃん、オレのやりたかったこと、叶ったのこれだけなんだから…。
もう、その一つまで、オレから盗らないでよ。もう死ぬんだからさ、笑ってた方が、みんなだって楽でしょ…?」

涙声になって、縋るように俺を見つめた。
俺は頷かなかった。逆に、井ノ原に疑問を返した。

「お前の言うやりたかったことは、何だ?」

すると井ノ原は目を逸らし、言ったってしょうがないよ、と唇を噛んだ。

「俺たちに出来ることがあるかもしれないじゃないか」

俺が言うと、井ノ原はこちらを睨み、無理だよ、と嘆いた。
 

「こんな身体になって、もう死ぬの待つだけなんだから。叶う訳ないよ。言ったって虚しいだけだよ」

 
 
井ノ原は諦めろと言うように俺を見たが、俺は井ノ原が話すのを待ち、じっと見つめ返した。
 
 
しばらく沈黙が続くと、井ノ原は負けたという風にため息を吐き、言った。

 
 
「…もっと、ギターやりたかった。曲たくさん作って、色んな人に、聴いてもらいたかった。
部活とかもやりたかっし、大学も行って、就職とか、したかった。本当にやりたかったのは、ミュージシャンだけど。
それに…、友だちもっと欲しかったし、彼女とか、普通に欲しかったし、みんながするような普通のデートとかしてさ、喧嘩したりもして、
そのうち、結婚して、子供作って…」


 
井ノ原は、泣いていた。
ずっと隠してきた涙をぽろぽろと流しながら続けた。


 
「お父さんになって、祖父さんになって…。家族が欲しかった。
誰かに愛して欲しかった…それで、何より、」
 
 
そして言葉に詰まり、唇を噛んだ。

相変わらず涙は井ノ原の頬を伝い、ベットのシーツに染み落ちる。
さきほどまで泣かないと強がっていたのは嘘のように嗚咽を繰り返し、井ノ原は唇を震わせながら、消え入る声で、言った。
 
 


「誰かに、誰かに……」


 
 
 
抱きしめて、欲しかった。


 
 
 
 
 
 
 

そう言うと、井ノ原はフッと微笑み、涙を拭った。

「ほら、全部無理でしょ、ハハ…笑っちゃうでしょ、こんな身体で、誰もオレに触れられないのに、抱きしめて欲しいなんて、さぁ……ッ…」
 

笑っていたが、涙はとめどなく流れていた。
 

「…もう、いい。もう、いいよ…恥ずかしいから、帰ってよ…坂本く…」




ぎゅっ…と。
 
 
 
涙を流しているのに笑おうとする井ノ原を見ないように、遮るように。


カーテンを開き、俺は、井ノ原を力いっぱい、

 
 
抱きしめた。

 
 
 
 
 
 


「…さっ…坂本くんっ…?何、やってんだよ?…触っちゃ、ダメ、病気、移るよ…?」
 

そう言う井ノ原の手は、しっかりと俺の服を掴んでいた。

「知らないよ、移ったって…オレ、知らないよ?」
 

 
「大丈夫」
 
 

「…え?」


俺に離れろと言う井ノ原に、俺は宥めるように言った。

「大丈夫…。お前はもうひとりじゃないから…もう絶対ひとりにならないから。大丈夫」
 
そう言うと、再び井ノ原の嗚咽が聞こえた。

俺は井ノ原の頭に右手をおき、左手で細い背中を撫でながら続けた。

「お前が笑っていなくても、俺たちはずっと傍にいるから。絶対お前を嫌いにならないから…」

「うっ…う、うそ、だぁ…」

そう首を横に振る井ノ原に、俺は言った。
 
 

「長野は、お前の治療を放り投げたことがあるか」

すると井ノ原はピクリと肩を震わせ、ううん、と首を横に振った。
俺は頷き、続けた。

「健はお前のこと、大事な友達の中に入れなかったか」

准一から聞いた話を持ち出した。すると井ノ原の首はまた、ふるふると横に振られる。

「准一はお前が目の前で倒れたとき、お前を置いて逃げていったか」

井ノ原の首は横に振られる。

「剛はお前の笑顔を嫌いって言ったまま、お前に会いに来なかったか」

首は横に振られる。
 
 

俺はふぅー、と息を吹き替え、再び井ノ原に聞いた。

「俺はお前が病院から逃げ出したとき、迎えに来なかったか」


首は横に振られて。

「…来て、くれた」


震える声で井ノ原はそう言った。

 
 
 

「…俺たちが、お前を嫌うと思うか」


繰り返していた嗚咽は止まり、井ノ原の首がまた、横に振られた。

俺は自然と顔が綻んで、もう一度井ノ原を抱く腕に力をこめた。


「誰もお前を嫌いにならない。お前が泣いていたって、怒っていたって、誰もお前から、離れていったりしないから。
お前はもう、無理して笑わなくていいんだ。大丈夫だから、絶対、ひとりにならないから…」

そう言うと、途絶えたはずの泣き声がまた聞こえてきて少し笑えたが、俺は優しく井ノ原の頭を撫でた。
 

「オレっ…」

嗚咽を繰り返しながら、井ノ原は吐き出すように言った。

 
 
「オレっ…まだ、死にたくない…ッ」

 
 
一瞬息が詰まった。
途端涙腺が緩み、俺の頬に生暖かいものが伝うのを感じた。

「そうだよな…」

震える声をなんとか出し、頷く。

「オレまだっ…生きたいよ、ギターやりたかったよおっ…。
なんで、なんでっ…死にたいって思ってたときは怖くて、死ねなかったのにぃ…、生きたいってときっ死ななきゃいけないんだよおっ…。
いやだ、よ…一ヶ月なんてっ…短い、よぉ…ッ」
 

井ノ原の俺の服を掴む手に力がこもった。
井ノ原の心の悲鳴に、俺は頷くことしかできなかった。

井ノ原はそれから子供のように嗚咽を繰り返し、もう何か言うことはなかったが、俺はずっと震える身体を抱きしめ、

 
 
「大丈夫、大丈夫」

 
 
そう子守唄のように繰り返し、ゆっくり背中を撫で続けた。

 
 
 
 
 
 
嗚咽が落ち着いて、井ノ原が泣き疲れ眠りにつくまで、ずっと。
 
 
 
 
 
 
 
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