12
ベッドの井ノ原は、無菌室にするための透明なカーテンで囲まれていた。
准一たち3人は、心配そうに井ノ原を見つめている。
長野と話し、井ノ原の余命のことは、本人にも准一たちにも言わないでおくことにした。
井ノ原に繋がれた心電図の音だけが、病室に響く。
俺たちはしばらく無言のまま、井ノ原を見つめていた。
「…おれ、今日は帰る」
不意に剛は呟き、俺たちに背を向けようとした。
「待ってよ、剛」
すると健が剛の腕を掴み、泣きそうな顔をして言った。
「井ノ原くん、今危ない状態なんだよ?…また、繰り返すの?」
井ノ原くん傷つけて、そのままにするの?
健は潤んだ目で剛を睨んだ。
剛は少し眉を潜めたが、すぐに強い目を健に向けた。
「繰り返さないよ」
剛は健の手を振り払った。
「こんな状態で、おれ上手く笑えないから。…井ノ原くんに、ちゃんと謝れねぇから」
だから、帰る。
「剛」
剛が病室のドアに手をかけると、長野が言った。
「…まだ、時間はあるから、大丈夫」
——まだ、大丈夫。
その言葉に、剛は少し目を泳がせた。
しかし健や准一は気づいていない。
剛は小さく頷くと、静かに病室を出ていった。
健はまだドアを睨んでいた。
すると長野は健の方を向き、優しい笑顔を向け、健の頭に手をのせた。
「剛も、よっちゃんと仲直りしたいって思ってるよ。ゆっくり、待ってあげよう」
長野の言葉に、健は少し不服そうではあったが、こくんと頷いて、病室の椅子に腰掛けた。
どれくらい時間が経ったのか。
皆井ノ原をじっと見つめて、黙っていた。
透明なカーテンの向こうに静かに眠っている井ノ原。
以前よりも細く白くなった身体。
何度も発作を繰り返していたのだろう。
ベッドの下に備えられたごみ箱には、錠剤の がいくつも捨てられていた。
「…イノッチ?」
井ノ原の瞼が、ぴくりと動いて。
ゆっくりと、黒目勝ちな目が開かれた。
————今までにない、発作だった。
准一見て、嬉しくて、手を振った途端。
グラッと視界が歪んで、脚に力が入らなくなった。
立て続けに咳をして、何度も吐き気に襲われた。
座り込んだオレを見て、准一は駆け寄って来てくれた。
強く手を握ってくれて、必死に助けを呼んでくれた。
だけど、あんな姿は見せたくなかった。
弱くて、苦しんでるオレなんか、見ないでほしかった。
まともな反応も出来ないオレなんて、
『…離れないっ! イノッチのそばにいるよ!』
…意味、ないでしょ————
「よっちゃん、わかる?」
気づくと、あの時の痛みや苦しみは、すっかりなくなっていた。
オレは病室のベッドに寝かされていて、マスクをつけた長野くんがオレの顔を覗き込んでいた。
…あぁ、オレ。
無事に運ばれて、助かったのか。
頷くように瞬きをすると、長野くんも頷き、オレの身体からいくつかの機具を外した。
意識がはっきりとしてきて、辺りを見回せば、透明なカーテンがベッドを囲んでいることに気づく。
そういえば、病室で治療をするときに長野くんがマスクをしているのも珍しい。
…あ。
考えを巡らせて、自分の病状の悪さに気づく。
もう、先は長くないのだろう。
免疫力なくなって外の菌が入りやすくなるし、感染力も増したんだ。
カーテンの向こうには、准一も、坂本くんも、健もいて、心配そうにオレを見つめていた。
…多分、剛は。
気まずいんだろうな、と思う。
もう1ヶ月以上会っていない。
『井ノ原くんの笑顔、嫌い』
ずっとその言葉が、頭から離れない。
井ノ原が目を覚まし、こちらに気づくには少し時間が掛かった。
長野が声をかけてもまだハッキリした反応はしなく、相当な体力の消耗をしたのだと察した。
准一が井ノ原を見つめながら、俺の手を握ってくる。
震えるその手を安心させるため、俺は強く握り返した。
「井ノ原くん」
健は眉尻を下げて、カーテンのぎりぎりまで近寄った。
「剛、帰っちゃったんだけど…。また、絶対来るから、待っててね」
ごめんね、と申し訳なさそうに言うと、井ノ原は力無く微笑んで見せ、掠れる声で大丈夫、と言った。
井ノ原も安静にしてなければならないので、俺たちは病院を後にした。
長野は「またすぐ来てあげて」と念を押し、俺たちを見送った。
「ねぇ、まーくん…」
3人とも黙ったままでいると、後ろを歩いていた准一が恐る恐る俺に言った。
「イノッチ、これからどうなるの?」
思わず足が縺れて、准一が背中にぶつかった。
転びそうになった俺の手を、准一がぎゅっと掴んできて。
その手の熱さと、鼓動が、直に伝わってきた。
「イノッチ、悪いの…?」
振り向くと、准一は潤んだ大きな瞳で俺を見つめた。
「…あぁ、ちょっと、な」
口から出た言葉は、それだけだった。
この2人にも、剛にも——剛は気づいているかもしれないが——いずれ話さなければならない話だ。
井ノ原との、別れの日が近づいていること。
だけど俺から話す勇気は、まだない。
井ノ原にもまだ話していないことだから、あまり傷つけないためにも。
——もう少しだけ、嘘をつく。
「少し調子悪いだけだって。長野も言ってたろ? …大丈夫、お前たちは心配しなくて良いよ」
すると准一は、不安そうな表情は変わらなかったが、少しホッとしたように笑った。
ごめん、2人とも。
いずれは、必ず話すから。
まだ、知らないままでいて。
今のままで、井ノ原ともしゃべってあげて。
目の前に広がる空は、雲で覆われて、今にも泣き出しそうだった。