10
「ケホッ、ゲホッゲホッ…あっ」
口元を抑えてた手には血痰。
毎日のように起こる小さな発作は、少しずつオレの体力を奪っていた。
「ゲホッ…ゲホッ……はぁっ…」
咳の反動で生じる眩暈。
オレは思わず机に突っ伏して、息を整える。
明らかに、あの病院を抜け出した日から悪化している発作。
『そんなびしょびしょになって、もっと病気悪くなるよ?!』
長野くんに言われたことを思い出し、思わず笑いが零れる。
ホントに悪くなっちゃったなぁ、なんて他人事のように呟いて、手を拭いて。
再びしそうになった咳をなんとか抑えて、ベッドに倒れた。
多分オレはもう、1年も生きられない。
まーくんには内緒で、おれは病院に来ていた。
「イノッチに会いに行く」って言うと、まーくんは絶対ついて来る。
最近ずっとお店休んでたから、そろそろ開かないとヤバいでしょ。
そう思って、おれは1人で病院に来ていた。
剛くんと健くんは、部活があって来られなかった。
剛くんは今度1人で行くみたいだし。
たまには1人もいいかな、なんて思いながら、おれはイノッチの病室へ向かう廊下を歩いた。
「…あ」
長い廊下の途中、少し先のトイレから、イノッチが出てくるのが見えた。
点滴を引いて、ゆっくり歩いてる。
おれには気づいていないようだ。
そしてイノッチは、トイレの向かい側にある全面ガラス張りの壁の手摺りに手を付き、外を眺めていた。
その横顔は痩せこけていて、真っ白で。
おまけに外を眺めるその目は、憂いをおびていた。
見ていると自分まで辛くなってきそうで、おれはソレを振り払うように明るい声を出した。
「イノッチ」
その場で、離れたところにいるイノッチに手を振れば。
イノッチは気づいて、こちらを向いて。
おれを見ると、ふわっと笑った…、
けど。
「准ちゃ…、っあ、れ…?」
不意に顔をしかめたと思うと。
「…ぁ、ぅう…」
ふらふらと足を震わせ、胸元を抑え、小さな呻き声を、上げて。
点滴の倒れる音と共に、壁にもたれるようにペタンと座り込んだ。
…え?
「…!! イノッチっ!!」
焦って駆け寄ると、イノッチは肩で息をして、目をギュウッとつむっていた。
「イノッチ、どうしたの?! 発作? イノッチっ…!」
「…はぁっ、はぁっ、…あっ、ゲホッ、ゲホッゲホッゲホッ…」
----准一に呼ばれて、振り向いた途端。
井ノ原の身体は悲鳴を上げた。
突然目の前が白黒に染まり、准一の身体が、歪んで見えて。
足が浮く感覚に襲われ、バランスを失った。
そして胸が締め付けられるように苦しくなり、酸素が足りなくなって。
准一の叫ぶ声が、遠く近く感じられた--------
「イノッチっ! しっかりして!イノッチ!」
「あ…准ちゃん、はな、れてっ…、ゲホッ、ゲホッゲホッ、うつる、か、ら…ゲホッゲホッ」
「えっ…」
イノッチは苦しそうに咳を続けながら、おれを自分から離した。
結核は、空気で感染してしまうから。
咳で、感染するかもしれないから。
…こんなときまで、他人のこと心配すんなよ。
「離れないっ! イノッチの傍にいるよ!」
絶対、離れないから。
するとイノッチは一瞬顔をしかめたが、何も言わず、顔だけ、床に向けた。
「誰か、呼ばないと…!」
おれは焦って周りを見回したが、まるで人はいなかった。
多分、廊下を抜けなければ人はいないだろう。
でも、今イノッチを1人にすることはできなかった。
おれは、精一杯、大声を出した。
「誰かっ!!誰か来て下さい! 誰か!!!」
イノッチは相変わらず咳は止まらないのか、口元を抑え額には脂汗をかいていた。
「イノッチ、しっかりしてっ…」
そう言っておれはもう1度、大声で叫んだ。
「だれか! だれか助けて下さい! だれか!」
早く、早く誰か。
助けてよ、イノッチを。
「誰か!」
イノッチはとうとううずくまり、顔を埋めてしまった。
「ゲホッ、ゲホッゲホッ…ぅ、ゔぇっ…」
「イノッ…!?」
イノッチの手の隙間から、血が零れた。
それでもイノッチの咳は、酷くなる一方で。
真っ赤な顔をして、イノッチは咳を繰り返す。
ヤバい。イノッチが、死んじゃう…!
「誰か、助けて!!」
おれは立ち上がって、枯れるまで大声を出して、助けを呼んだ。
しかし誰も来なくて、とうとう呼びに言った方が良いかと、思ったところ。
「どうしましたか!?」
険しい顔つきで看護婦が廊下の先から顔を除かせ、イノッチを見ると目を見開いた。
「早く! 早く長野くんを呼んで下さい!」
必死に叫ぶと、看護婦さんは慌てて走って行った。
「ゲホッゲホッ…ゲホッ、ごめ、な…」
「イノッチ…」
イノッチの意識はもう、途絶え途絶えになっていた。
だけど咳は止まらなくて、イノッチの左手には血が溢れていた。
「イノッチ、大丈夫だよ。もうちょっとで、長野くん来るから…」
大丈夫、大丈夫と、何度も繰り返して、おれはイノッチの右手を強く握った。
するとイノッチは、焦点の合わない目をこちらに向けて、曖昧に微笑んで。
突然グラッと身体を傾けた。
「わわっ!イノッチ!」
おれは倒れるイノッチの身体を抱き留めたが、イノッチは硬く目を閉じたまま、荒い呼吸を繰り返していて。
おれの焦る気持ちは、強くなるばかりだった。
すると。
「よっちゃん!」
長野くんと5人くらいの看護婦たちが、ストレッチャーを押して走ってきた。
「長野くんっ」
長野くんはイノッチを見た途端、顔をしかめた。
イノッチをゆっくりストレッチャーに乗せて、先に看護婦たちに行かせ、長野くんはおれと向き合った。
「よっちゃん、昏睡状態になってる。
処置室行った後、すぐICUで治療するから、坂本くんたちも、呼んでおいて」
長野くんは、辛そうに眉を潜め、続けた。
「どうなるか、わからないから」
…え?
おれが戸惑っていると、長野くんは優しくおれの頭を撫で、
「ありがとう」、と一言言って、処置室へ走って行った。
どうなるかわからない、って。
なにそれ。
そんなに、ヤバいの…?
大丈夫じゃ、ないの?
やめてよ、そんなの嫌だよ。
困惑したままおれは公衆電話を手に取り、家の番号を押した。
少し長いコールの後、聞き慣れた低い声が、返事をする。
「もしもし…まーくん?」
予想以上に震えた声で言うと、まーくんはすぐおれの異変に気づき、「どうした」と心配そうに聞いた。
「今、病院、来てるんだけど…」
黙ってきてたから、まーくんはおれが病院にいることにまず驚いた。
だけど、すぐ声は深刻になって。
「井ノ原に、なんかあったのか?」
井ノ原と聞いた途端、おれは落ち着きを失って。
「まーくん…!ヤバいよ、イノッチがっ…イノッチ、倒れちゃったんだ、
何度も何度も、咳、繰り返して…血まで吐いちゃってっ…。
意識なくて、集中治療室連れてくって、長野くん言ってたんだっ。
それで、みんな呼んでくれって、どうなるかわかんないからって…。
まーくん、どうしよう?!」
めちゃくちゃだった。
おれはもう半泣きで、まーくんも驚いていたけど、
「わかった。剛と健には俺が連絡する。待ってろ」
そう言って、電話を切った。
おれは受話器を戻して、その場にしゃがみ込んだ。
頭を抱えた手は、ぶるぶると震えていた。
怖い。
怖いよ。
でも。
少し落ち着きを取り戻してから、おれは集中治療室に向かった。
大丈夫、と繰り返して。