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それから俺は、毎日のように病院に通った。もちろん准一の見舞いなのだが、井ノ原に会いに行きたいというのもあった。いくたびに、井ノ原は屋上にいた。病室のベットで寝ていることなんて、ほとんどなかった。
今日も俺は、准一と少し話してから、屋上に行った。
屋上に行くと、井ノ原はやはりベンチで歌っていた。
「井ノ原」
俺が呼ぶと、井ノ原は振り返って嬉しそうに笑った。
「今日も来てくれたんだ」
俺はいつものように、井ノ原の隣に座って、井ノ原の歌を聴く。
-遠いところまで ぼくたちはやってきた
泣いて 笑って 笑って 泣いて
それでも笑って僕は言うだろう
「遠いところまでやってきたのだ」と-
「井ノ原」
井ノ原の歌を遮る。
「なに?」
井ノ原は相変わらず笑顔を向ける。
「お前いっつもここにいるけど、ベットで寝てなくて大丈夫なのか?」
日頃から思っていた事を聞いてみた。すると井ノ原は、少し困ったように笑った。
「大丈夫だよ」
井ノ原はまたギターを弾き始める。
「長野君と、『ここで歌っていいのは1時間』って約束してるから」
井ノ原はもう、ちゃんとした笑顔になっていた。
「歌うのも、ギター弾くのも、大好きだから」
井ノ原が空を仰ぐ。
「ずっと、こうしていられたらいいのに」
「…は?」
「ずっとこうして、歌ってたいのに…」
井ノ原の声が小さくなった。井ノ原を見ると、井ノ原は俯いて、微かにギターを弾いていた。少し長めの前髪のせいで、表情は見えなかった。逆にそれが、俺の胸を締め付けた。
しばらく経つと、長野が井ノ原を呼びに来た。もう1時間経ったよ、と言って、長野は井ノ原を病室に行かせた。今日は、長野は井ノ原と一緒に行かず、屋上に残った。
「いつも来てくれて嬉しいって、前よっちゃんが言ってたよ」
井ノ原が座っていた場所に、長野が座って言った。
「坂本君も、よっちゃんの歌、好き?」
「あぁ」
井ノ原の優しい歌声が、俺は好きだった。
「俺もよっちゃんの歌、大好き」
長野はそう言って、黙った。口元には微かな笑みを浮かべていた。だけど、それは本当の笑顔に見えなかった。どこか、無理して笑っているように見えた。
「井ノ原の病気って、悪いのか」
俺は思い切って聞いてみた。
すると長野は、また口元だけで笑って、立ち上がった。
「よっちゃん、初めて会った時はすごく静かだったんだよ」
長野はフェンスに寄り掛かり、笑顔のまま話した。
「いつも掛け布団握り締めててさ。俺が笑って話し掛けても、新しい同室の患者さんが挨拶してきても、顔強張らせて、掛け布団ギュッと握り締めてるの。話す時はずっと俯いてて、話し終わるとホッとしたように掛け布団から手を解くの」
いつもの井ノ原からは想像できないような話だ。俺は少し困惑していたが、長野は気にせず続けた。
「だけどある日、病室見たらよっちゃんがいなくて。焦って色々探したら、屋上にいたの。何処で手に入れたか知らないけど、ギター弾いて、歌ってた。すっごく綺麗な声でさ、感動しちゃった。その後歌い終わって病室戻ろうとしたのか、こっち振り向いてね、俺に気づいたの。そしたら、すごくびっくりした顔して、恥ずかしそうに俯いて。どうすれば良いのかわかんなかったみたいだったから、俺が『すごく良かったよ』って言ったの。そしたら、よっちゃん、ちょっとびっくりした後、すーっごく嬉しそうな顔して、笑った。よっちゃんの笑顔見たのは、それが初めて。それ以来、よっちゃんは今みたいにたくさん話してくれるようになったんだ」
長野はそう言うと、ハァ、とため息をついた。
「これからも、歌わせてあげたいけど…」
長野は話すのをやめて、俺の方を向いて、「行こう」と言った。俺は少し驚いたが、言われるがままに長野と屋上を下りた。
病室に行くと、井ノ原はギターをベッドの横に置いて、ベッドに座り准一と話していた。准一ももう起き上がれるようになっていたから、2人でふざけ合っていた。すると長野が呆れたように笑って
「もー2人とも! まだ退院できないんだから大人しくしてなさい!」
長野はホラホラ、と言いながら准一と井ノ原をベッドに寝かせた。2人はブーブーと文句を言っていたが、准一はすぐに眠ってしまった。しかし井ノ原はしっかりと目を開けたまま、長野に話し掛けていた。井ノ原は元気そうにしていたが、会った頃より痩せたように見えた。
やはり、重い病気なのだろうか。
長野は答えなかったけど…。
「これからも、歌わせてあげたいけど…」
長野はそう言っていた。
「ずっとこうしていられたらいいのに。ずっと歌ってたいのに…」
井ノ原が言っていた。
治らない。
そういうことか?
井ノ原の願いは…
長野の願いは…
叶わないのか?
なぁ。
ならどうして、そういう風に笑う?
井ノ原も、長野も。
もっと他の感情、出せねえのか?
怒ったり。泣いたり。
弱音、吐いたりさ。
相変わらず2人は、ニコニコ笑って話している。
すると、一人で突っ立ていた俺に気づいた井ノ原が、「坂本君」と笑顔で呼んだ。
井ノ原は、楽しそうに長野と俺にしゃべる。その笑顔を見ていると、どんなに深刻なことを考えていても、つられて笑顔になってしまうのだった。
なんでもないような顔してんじゃねーよ。
ばーか。