4(I.side)
「はい、じゃー10分な。始めっ」
高3の最初の頃までは、オレは真面目にどの授業も出ていた。
それなりの授業態度で、それなりの点数も取って。
中でも一番出来たのは、坂本先生の世界史で。
未だちゃんと出席している授業も、世界史だった。
「はい、じゃあ後ろから回して。教科書95ページ」
速いペースで教科書を読み、黒板にまとめ、次々に生徒を当てていく。
確実に生徒が理解するように授業を進めていく、坂本先生。
ルックスも良かったから、生徒たちの人気も高かった。
そんな授業の最中だった。
最悪の事態が起きたのは。
「ノート出してー。黒板の空欄は、自分で考えて書いていって。後で答え合わせ」
一斉にノート開いて。オレも先生のスピードに置いていかれないように、必死にシャーペンを動かした。
ただノートにつけるペンの音だけが響いていた。
誰もが前だけを見ていた。
一番後ろの席だったオレ。
何もかもが最悪のタイミングだったんだ。
「…ッ、あれ…?」
不意に眩暈に襲われた。
手元が狂って、ノートにガッと線を引いてしまった。
オレは眩暈を払うようにぎゅっと瞬きし直して、消しゴムを走らせた。
だけど。
線は消せなかった。
「ッ…!! ———あ…ッ!」
ドキン、と心臓が跳ね上がる気がした。
発作だ。
授業中発作が起きたのは、初めてだった。
「…っ、はッ…?!」
心臓辺りのシャツを握って。
ゆっくり呼吸しようとしたけど、できなかった。
「…ハァ…っ…ハァッ…」
だんだん呼吸が、できなく、なって、いって…。
「ハァッハァッ、っ…」
まだオレの発作に気づくクラスメイトはいなかった。
くす、り。
薬、飲まなきゃ。
ズボンのポケットを必死に探った。
カシャ、と聞き慣れた音。
それを握り締めて見た。
発作を抑えるための錠剤。
「…っ?!ない…」
なかった。
最悪だった。
今日の朝飲んだ分で、なくなっていたのだ。
「ッ…や、べぇッ…!」
机に倒れ込むのを抑えようと手を出した拍子に、バサバサと筆箱やノートが床に落ちた。
一気に視線がこちらに向けられる。
多分、先生、も。
「んーどうした? …井ノ原?」
こちらを向いた先生の顔が、霞んで見え、景色が何重にも重なって来て…。
もう、ダメ…
「———ッ! 井ノ原っっ!!」
オレは椅子から落ちて、床にうずくまった。
途端周りの奴らが椅子ごと引いて。
坂本先生が慌てて駆け寄ってくる足音が、耳に響いた。
「ハアッ、はっぅッ…」
「井ノ原っ、しっかりしろっ!!」
先生の声と共に、オレの身体は抱き抱えられた。
上手く息が出来なくて、声も出なかった。
ただ、失いかけた意識の中で、自分を助けようとしてくれている坂本先生の、目だけが、見えて…。
「井ノ原しっかりしろっ! …保健室行こう、乗れ!」
オレは坂本先生の背中に背負われ、坂本先生は
「皆自習! 学級委員、頼む!」
と叫び、保健室へ走った。
苦しくて、
痛くて、
気持ち悪くて、
辛かった。
でも
先生の背中は
温かくて、
…父親、みたいだった。
「先生っ! 救急車! 救急車を呼んでください! 井ノ原、心臓の発作が起きたようで、落ち着かない様子なので…!」
坂本先生は保健室に着くと、すぐ側の長椅子にオレを寝かせ、保健の先生に言った。
オレは一向に発作が治まらず、胸を手で抑え荒い呼吸を繰り返していた。
目を閉じて、ただ息を整えようとしている間、周りでは坂本先生と保健の先生がバタバタしているのが感じられた。
少し先生たちの人口密度も増えたようで、囁くような声が耳に流れた。
保健の先生が電話をしている。
多分、長野くんの病院。
オレは目を閉じたままだったが意識を失うまいとしていた。
イタイ… イタイ…
クル、シ、イ…
先生、助け、て…
「さかも、と先、生…」
オレは無意識に坂本先生に手を伸ばしていた。
絞り出した声は、坂本先生に届いて、先生はすぐオレの手をぎゅうっと握ってくれた。
「ハァっ、ハァ、せんせ、ぇ…」
必死に、目を、開いて。
「井ノ原、もうちょっとで…、すぐ、救急車来るからな。あとちょっとだから」
そう言って、オレのおでこに汗でへばり付いた髪の毛を払って。
安心させるように見せてくれた笑顔を、見て。
目の前が真っ暗になった。
…白い、天井。
鼻にツンとくる、独特の薬品の匂い。
病院だ。
「お、起きた」
目を開くと、ちょうど病室に入ってきた長野くんの声がした。
長野くんは、優しく微笑んでオレの頭を撫で、椅子に座り言った。
「大丈夫、ただの発作。でも、もしかしたら今日熱っぽかったんじゃない? 苦しかったでしょ」
オレはうん、と頷く。
「とりあえず、今日と明日は入院ね。…あ、そうだ」
さっきの、坂本先生だっけ?
「ついさっきまで付いて見てくれてたんだけどね。学校戻った。すーごいよっちゃんのこと、心配してたよ」
オレはその言葉に、息を飲む。
わざわざ病院まで来てくれたとは。
嬉しかった。
「良い先生だね」
長野はにっこりと微笑む。
「うん、大好きな先生だよ」
オレは負じと笑顔を見せた。
だけど、退院して、明くる日。
朝教室に入ると、今までとは違う空気が流れているのに気づいた。
皆オレを見ると、すぐ目を逸らし、背を向けた。
変だった。
居心地が、悪く感じた。
オレが自分の席に荷物を置くと、近くの席の奴らはチラッとオレを見て、そそくさと席を離れていった。
——静まり返る教室。
皆、背中でオレを見ていた。
途端、足が震える。
それで気づいた。
…ココハ、ボクノ イルベキトコロ ジャ、ナイ。
その日は坂本先生の授業が入っていた。
オレは高校に入って初めて、坂本先生の授業をサボった。
あの教室に入っていく勇気は、なかった。
オレは屋上にいた。
今は昼休み。ちらほらと屋上で休んでいる生徒はいたが、オレのいた外れに来る奴はいなかった。
「あ、いた」
予想しなかった声に、オレは肩を竦めた。
振り返ると、そこには細身のスーツで、Yシャツを肘まで捲った姿の坂本先生が立っていた。
オレが呆気にとられていると、坂本くんはニヤリと笑みを浮かべて見せ、オレの隣に腰掛けた。
ウーン、と空を見上げ、言う。
「今日は雲一つもないな」
オレは小さく、頷く。
…。
「初めて授業サボったな」
「……」
「教室、キツいか」
頷く。
先生はフフ、と鼻で笑う。
「発作皆に見られて、変な目で見られんの、怖いか」
「…気持ち悪くなる」
そっか、と坂本先生は頷いて。グシャグシャと乱暴にオレの頭を撫でた。
「心配すんな。…俺は、井ノ原の味方だぞ」
とか言ってこれ先生の言うべきことじゃないんだけど、と。
冗談まじりにそう言って。
最後にぽん、と頭に手を乗せて、ニイっと歯を出し笑ってみせる。
「俺は、お前のこと待ってるぞ」
有無を言わせない目で、そう言った。
「欠席は? …よし、ゼロだな」
全部の授業に出る程の辛抱強さは、持てない。
だけどオレは今も、坂本先生の授業だけは、欠かさず出ている。